武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『よもつひらさか往還』 倉橋由美子著 (発行講談社2002/3/20)

 晩年の倉橋由美子の作品群に、このところ気持ちよく酔っている。全作品集以来、熱心な読者ではなくなっていたので再入門である。<桂子さんの物語>4部作と<桂子さんシリーズ>6部作を中心に、70年代後半以降の作品群を図書館から借りだして、少しずつ読んでいるが、とても楽しい。とりわけ90年代あたりからの晩年の作品には、呪われた宝石のような輝かしくて暗い世界が鮮明に定着されていて、奇譚の快楽をたっぷりと堪能できる。
 サントリーのPR誌「クォータリー」に連載されていた「カクテルストーリー・酔郷譚」をまとめた本書は、連載短編シリーズ、物語の枠組みを装置のように固めておいて、枠組みとしての装置を駆動することによって、年間3回発行の雑誌のペースにあわせて、作品を毎回生み出す仕掛け、このシステムが甘露のような見事な物語の名品を絞り出した。
 リアルタイムで読んでいた読者も作者も、4ヶ月に一作しか味わえなかったのだから、せめて一日一作品程度のゆったりした遅読み(速読の反対)で読み進んでみた。濃厚な物語の口当たりを、なだめたりすかしたりしながらこの半月ばかり、たっぷりと堪能させてもらった。倉橋作品の毒を含んだエスプリを、日々の良薬として楽しむには、読み手の側にこうしたチョットした工夫が大事。
 この物語は、九鬼という魅力的なバーテンダーが作ってくれる魔酒カクテルを飲み、酔心地が作り出す幻想の魔界がそのハイライト、連れと一緒に飲むカクテルの違いによって、主人公が彷徨する酔郷が万華鏡のように変貌、倉橋由美子の言語表現の粋を極めた目眩く幻想世界が展開する。
 最初の5篇は、4ページ程度の掌編で少し物足りないところもあるが、6話からのお話は、倍の8ページほどに長くなり、筋立ても格段に複雑になり、幻想世界の奥行きも深まり、味わいが格段に濃厚になる。水彩が油彩に変わったような嬉しい変化、掌編の5話は、次のような目次である。

花の雪散る里
果実の中の響宴
月の都に帰る
植物的悪魔の季節
鬼女の宴

 第3話の「月の都に帰る」では、後期倉橋作品のスターシステムのヒロインとでも言うべき<桂子さん>がついに登場、主人公との近親相姦的なエロスの宴が、妖しく明滅してなんとも美しい。物語の枠組みは同じだが、作品ごとの変化に工夫を凝らし、作者の日本語を扱う熟練の技が光る。日本語がこんなにも自在な言語だったかと、感心するほどに、奇妙な幻想世界の表出に淀みがない。熟練した職人の工芸品に触れるような渋い味わいがある。
 次の第6話からの目次は、次の通り。

雪女恋慕行
緑陰酔生夢
冥界往還記
落陽原に登る
海市遊宴
髑髏小町
雪洞挑源
臨湖亭綺譚
明月幻記
芒が原逍遥記

 シリーズのスターである<入江さん><桂子さん>に加え、主人公の<慧君>の連れが毎回変わり、魔界のバーテンダー<九鬼さん>の作る魔酒カクテルの変化にあわせて、酔って誘い込まれる魔界の味わいの濃厚なこと妖艶なこと、死と性の変奏から生まれて読み手に伝わってくる芳醇さは比類ない。現実の世界に置いてみると、とんでもない悪徳であり、汚穢に満ちた負の美学なのに、倉橋由美子の筆になると、類い希な美の世界に変貌するのがなんとも不思議、<言葉の錬金術>と評してみたくなる
 個人的には「雪女恋慕行」の凍りつくような冷たさに包まれた母と子の近親相姦幻想、本書の題となった「冥界往還記」の、腐敗臭に満ちた闇の中のたぎるようなエロスの境地、「落陽原に登る」における壮大な移動と空間の広がりと人造人間<麻姑>との歓楽の時などが、特に気に入った。「髑髏小町」における髑髏とのキッスやセックスは、悪趣味もいいところなのだが、捨てがたい魅惑に満ちた物語に仕上がっているところが凄い。
 「落陽原に登る」では、案内役の九鬼さんが壮烈な死を遂げたり、次の「海市遊宴」で主人公のDNAに入り込んで蘇ったりして、その自在な筆運びには呆れるばかり、これほど融通無碍な境地に至った作家は、それど多くはあるまい。 
 全編酒を飲み酔って彷徨するの酔郷世界だが、作者は全くお酒が飲めない体質の方だったとか、飲めないからこそ描けた、創造力によって紡がれた酔いの世界だったのかと吃驚、文中カクテルの知識に非常に詳しいのは、しっかりと取材した上でのことだったのかと、改めて感心した。少しだけ気になっていた、カクテルの味についての記述がまったくない理由もこれで納得がいく。
 読書から何か教訓を得ようという方にはこの本はお勧めしない、ただひたすらに喜びと楽しみだけが得られればそれで満足という方に、血の色のリボンを巻いてこれをどうぞと手渡してみたいような本、お子様向きではない。


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