武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 新装版『春夏秋冬帖』 安住敦著 (発行牧羊社1985/8/31)


 広島の詩人にして俳人の木下夕爾(きのしたゆうじ)の著作を読んでいて、木下が心から信頼を寄せていた俳人安住敦の随筆集「春夏秋冬帖」を手に取ってみる気になった。季節感のある気楽な読み物を期待して読み出し、期待以上の収穫を得たのでご紹介しよう。
 句誌「春燈」の編集後記代わりに書かれた文章と断ってあるが、内容は身辺の日常的な出来事に、行き来している知人や俳人との出会いと別れなどの人事を織り込み、季節感豊かな切れのいい散文詩といった趣、文章に強い主張があるわけではないが、作者が達意の文章にくるんで差し出してくる情緒や気分に温かみがあり、ほっとしたり頷かせられたりして、こちらの気持ちが自然に和んでくる。一日に数編ずつ楽しみながら、この何日間かとてもいい時間を過ごさせて貰ったことに感謝している。
 途中で気がついたことだが、本書では全編が見開き2ページに納まる短文に(原稿用紙3枚以内だそう)まとめられており、すべて段落がまったくない1編1段落の構成をとった文章。文中に場面の転換や、文意の流れの切り替えがないわけではないが、段落を分けないでそのまま続けて記述してある。気をつけて読み返してみると、どの文も工夫を凝らした起承転結を内包した巧みな組み立てとなっているのに、そこに気づかせない工夫なのかもしれない。
 読みながら、いつの間にか著者の物の見方に、身を近づけてしまい、自然に以前からの知り合いだったような気分になっていたのには驚いた。著者が持つ童心とでも言うべき素直な物の見方と、随所で見せる巧まないユーモアの精神が、折に触れて遭遇する避けようのない哀しい出来事に出会い、思わずホロリとさせられ、いつの間にか励まされていたりする。不思議な癒しに満ちた読書になった。
 日々何かと気ぜわしい思いにさせられる出来事に追いまくられながら、それでもいろんな事を感じながら季節の移り変わりと共に時を過ごしてしまう人生も、まんざら捨てた物ではないなという感慨すら湧いてくる。全く不思議な読み味の随筆集である。これは著者の絶妙なバランス感覚によるものではないかという気もする。読んでいてどこか片方に偏っているなという感覚を全く感じない。どんな逆接も場面の飛躍も自然な感じでつなげてしまうのがこの著者の文体の力と言うものだろう。
 全体の構成だが、ほぼ1月正月に関係のある内容から、徐々に2月3月へと、季節の移り変わりに合わせて編成されているが、微妙に年代や月を入れ替えて、前後を巧みにつないであるようだ。どこから読み出してもいいが、順番に読んでもそれなりに面白いように編集されている。前後関係の入れ替えにも細心の気配りがなされている。
 全体の構成にも、文章の細部にも、行き届いた配慮を張り巡らせた結果が、こういう素晴らしい読み味の随筆集になって実を結んだということだろう。新刊ではお目にかかれないと思うので、図書館などで是非手に取って見てほしい。時間をかけた入念な仕事が、本の形を取るとどうなるかという見本のような書籍です。
 最後に気に入った一遍を全文引用してみよう。題は「コオロギ」。

元来、コオロギという虫、秋鳴く虫の中でも最もありふれた部類に属し、その数も多ければ鳴く場所にもあまり選り好みはないようである。コロコロコロと鳴くのがエンマコオロギ、リジリリジと鳴くのがツヅレサセコオロギだが、早くも立ちそめる秋風とともに、その辺の草群にはかならずコロコロとエンマコオロギの声がきかれ、やがて深まる秋とともに、人家の縁の下にジジジとツヅレサセコオロギの鳴く音がきかれるのがならいというものである。かくて、ひと秋を鳴きつづけて冬になると、ほかの兪みじかい虫たちがすでに鳴く力を失って死に絶えてからも、なお、わずかに生き残ってかすかながら彼女たちの唄をうたいつづけるのが、またこのコオロギのあわれさというものだろうか。戦争中、ぼくは幾度かこのコオロギの鳴く音を防空壕の中できいた。防空壕といってもほんの庭隅に土を掘って覆いをしただけのものに過ぎないのだが、言えばこの貧相な防空壕だけが、ぼくたちの唯一の避難所、ほかに何を頼り、何にすがるすべがあったというものであろう。もともと、東京で生まれて東京に育った者にとって、別に郷里というものがあるわけではない。戦争がどのように深みに入ろうと、空襲がどのようにはげしくなろうと、疎開するさきはないのである。せめて防空壕を掘れるだけ大きく掘って、空襲のたびごとに宗族ぐるみ逃げこむ。ときにはそこで夜明しもする。そして、回を重ね、激しさを加える空襲のたびに、ああこれが最期かも知れない、それならそれでいいのだといった不安と諦めとが、絶えずぼくの心を捉えてはなさなかったものである。そんな不安と諦め心とりことなって、じっと防空壕の隅に身をひそめ、近づくB29の不気昧な爆音に耳をすましているときである、コオロギの声のこの上もなくかなしくひびくのは・・・・・。しんとしずまりかえった敵機襲来前のひととき、防空壕の入口の、わざと茂るがままにしておく雑草の根元で、いきなり、コロコロコロコロと鳴くコオロギの、なにか祈るような訴えるような声に耳を碩けたものである。あのようにまで澄んで美しく、またあのようにまで哀切なコオロギの声というものをぼくはきいたことがないが、ありようは、何もそのときのコオロギの声がとくに澄んで美しかったわけではないのであろう。ぼくの心がそのようにききとめたのにすぎないのであろうが、そのように澄めば澄むほどかなしく、美しければ美しいほどまた哀しいのが虫の声というものであろうか。このあいだ、むざんに掘りくりかえした東京の道路の、地下鉄工事の大穴の絶壁に、夜更けて鳴き澄むコオロギの声をぼくはきいた。(一九六三・九)