武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

  石田勇治・星野治彦・芝野由和編訳(発行白水社)

toumeioj32005-09-07

 国家による戦争、第2次世界大戦、20世紀、現代文明、民族国家、これらのどの課題を考えるにも、私にとってはナチによるユダヤ人多量虐殺は、避けて通れない扉のようなものとなって久しい。一部の人から、自虐的と言われようが、この国が犯したアジアへの武力侵略と殺戮行為は、この国の体質と歴史を考える時、避けて通れない動かせない門のようなものとなっている。このいずれもが、ファシズムと呼ばれる政治体制のもとに多数の国民を動員し、歴史に残る醜い汚点を残したことは、私の思考と行動に、いつも暗い影となって付きまとってきた。
 アウシュヴィッツは、長い間、抜けない棘のように、私の思考に付きまとってきた。あまりに重いので、数年前に、ボーランドを旅行し、現地にまで行ってきたほど。夥しい数の被害者の遺物の山、当日は爽やかに晴れ上がった北国の明るい夏日だったが、冬空の曇天でなくてよかったと、しみじみ思ったほど気の滅入るアウシュヴィッツ訪問だった。刑罰としての死刑にも原則反対だが、刑ですらない実務的で効率的な大量殺戮行為、戦争を背景にしてはじめてなしうる国家の狂気、何度考えても慄然として震えが止まらない。
 さて、本書の内容だが、本書の構成は3章よりなり、その第1章「アウシュヴィッツ絶滅収容所」では、これまでに知られているアウシュヴィッツ情報を簡潔に整理、改めてアウシュヴィッツの歴史とその存在を振り返る。本書でも繰り返されているように、事実を歴史として振り返るのは、何度繰り返して確認して置くべきこと。
 第2章が、本書の中心部分、「アウシュヴィッツの嘘」では、ネオナチをはじめとする極右勢力からの、動かないはずの歴史的事実にたいする、歴史修正的な働きかけの整理とまとめとその分析が示される。歴史的事実を否定する主張が、繰り返し執拗に、考えうるあらゆる角度から、なされ続けていることに正直驚かされた。とりわけ資料の曖昧な使い方や、正確さを欠く数字を巡って、悪意に満ちた主張が繰り返されているを知り、そういうこともあるのかと、感心したりあきれたり、揚げ足を取るような攻撃は、確かに相手を一瞬ひるませる効果がある。どこでも似たようなことがあるものだと、あきれ、感心した。
 第3章は、編訳者たちによる、「アウシュヴィッツの嘘のその後」と題した解説と、この国に関わる類似の問題についてのレポート。
 全体としては、何か物足りないような気がするのは、1章と2章が占めるページが100ページ足らずでチト薄いため、第2章の情報をもっと期待したため。
 始めて知ったことがあった、それはドイツの刑法第140条には「ナチによる民族虐殺の否定および矮小化」に関する処罰規定があること。1985年の連邦議会で可決成立している。これを<アウシュヴィッツの嘘法>という。歴史の評価と偽造は、表裏一体の問題。どこの国でも、歴史の評価となると熱くなるものらしい。