武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『夏の闇』開高健著(1972年3月発行新潮社)

toumeioj32005-12-03

 この本も何回読み返したか分からない。あらゆる点で最高度に完成し、あやういまでに調和の取れた現代における孤独な男と女の物語。著者半生の忘れがたいエピソードが、熟成したお酒のようなほどよい発酵具合で散りばめられていて、読むたびに気持ちよく酩酊気分にさせられる。文章よし、ストーリーよし、全体のバランスよし、長編の長さもちょうどよし、何度読んでも、細部を忘れ、細部で楽しめる。嫌なところまるでなし。著者の最高傑作は他にあるかもしれないが、この国の現代の男と女の物語としては最高傑作の1冊に入るのは間違いない。この本だけは珍しく、発行当時の初版を所有しており、繰り返し読んで汚れてしまった本を今なお大事にしている。
 画像でご覧いただけるようにまっ黒な箱入りで、著者の顔写真とともに著者得意のセールスコピーが印刷してある。この文章が良いので引用してみよう。

この下腹の柔らかい時代には甘い生活にふけることしかできない心がある。けれど懈怠の末にその心が自身に形を与えようとして何かを選ぶ午後もある。その飽満と喜捨を私はこの作品でさぐってみたかった。これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを「第二の処女作」とする気持ちで、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変った。

 この本を書くまで、開高健は方法意識が先行した、意識的に前衛を志向する作家だったように記憶している。私的な体験を何重にも濾過してからでなくては使うことをせず、虚構性の外枠で全体を覆いつくすような作品を次々と発表、1作ごとに新しい方法論を試すような若々しい才能だった。私はその頃の血気盛んな開高健がさっそうとしていて好きだった。
 だが、ベトナム戦争にかかわった辺りから、開高健は変った。新進作家であることを止め、現代作家になったのだと思う。時代に関わろうとしていた個人が、突然時代に取り込まれてしまい、時代の病根をさぐっていたのが、突然にして時代の病根そのものになってしまったと言ったらいいか。私から見ると、この本の前作「輝ける闇」あたりから、圧倒的な内面描写が広がり、表現の幅を広げた感じを持っている。アメリカの70年代〜80年代の表現がベトナム戦後作品と呼びたくなるような現代的深まりを見せたように、開高健もまたベトナム戦争で深まったような気がする。時代の核心に触れるということは、表現者にとって終生抜け出せない麻薬に犯されるようなことなのかもしれない。
 この「夏の闇」はそんな開高健の葛藤の中から滲み出てきた作品。したがって、この作品は掛け値なしに血で書かれた物語、著者の真実の声、と評しても言いすぎにならない。どのページを開いても、瑞々しい文章が鮮やかにたち上ってくるのだが、あえて読みどころと思える部分を拾い上げてみると以下のようになる。箇条書きで拾い出してみよう。
 一、冒頭のどこかヨーロッパの古都における、10年ぶりの男と女に再会の喜び、苦い後味が待っているに決まっていても、10年ぶりの再会に自ずからあふれ出てくる生きていることの喜びがある。開高健の筆は、その生の歓喜を見事に活写する。この生々しさはただ事ではない。最高水準のポルノ小説の味わいがある。
 二、女の住まいに場面が移って、二人の関係から再会の喜びが薄れ、女の日常性が二人を包囲し始める。見事な細部を通して、夏が季節感を深めるとともに二人の倦怠が始まる。男と女からファミリーを築く構成要素としての意味合いを抜いてしまうと、つまり完全な個人にするとどうなるかという、これは一種の実験小説としても読める。宿命的な挫折へ向かう二人となんとか崩壊をくいとめようとする二人。出会った瞬間から始まる男と女の暮らしとは、二人を包む日常の繰り返し、生活の繭を紡ぐような営みがリアルに描写されて見事。
 三、二人は二人の日常性の繭の外へ、非日常性を求めて山の湖へ行き、釣りをする。男が趣味にふけるとき、倦怠感は退き、山の湖の空気に触発されて二人は新鮮さをとりもどす。自然描写のなんという喜びに満ちてういういしい輝きに満ちていることだろう。酸素に満たされた鮮度抜群の空気が吹き抜けてゆく感じがする。アウトドアの喜びをかくも美しく描き出した文章は、そんなに多くはないだろう。この作品の最も美しい美味しい部分はここに散りばめられている。適度にエロチックでナチュラルで、味が濃い。私は、この部分だけを読んで何度も気分転換に成功している。
 四、山を降りた二人を待っているのは、やはり別々に歩んできた二人の10年間の現代生活、再び山へ関係を修復するために出かけても、次第に倦怠感の方が山の生活すら包み始める。そして、ベトナム戦争、男の中に居座っている戦争の気配が、避けようもなく男を戦場の方へ引き付けはじめる。別れの舞台は多分東西に分裂した旧ドイツ、東西ドイツをつなぐ環状線の中の別れのシーン、すでに、男と女は深く隔てられ、どうしようもなく隔てられてしまっていることを強烈に印象付けてこの哀切な物語は終わる。
 総ページ200ページあまり、たるんだところがほとんどない。たるみはたるみとして、次の起伏への伏線として意味をもってたるんでいる。みごと言うしかない傑作。多分、映像化は不可能な純粋文学。手の施しようがない傑作と言うものが、文学作品にも存在するという見本のような作品。これは、買って自分の物にしておくべき本である。