武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『吉兆味ばなし一』 湯木貞一著(発行暮らしの手帖)

 ついに食品偽造問題と残飯使い回し事件の当事者、船場吉兆が廃業するというニュースを見て、複雑な感慨を抱かざるを得なかった。5系統に分岐した吉兆グループに何があったのかなかったのか、船場吉兆だけのことなのかそれとも吉兆グループ全体が抱える膿があるのか、何故にかくも執拗に内部告発が続いてしまうのか、危機管理の甘さと言ってしまえばそれで終わり程度のことかもしれないが、創始者湯木貞一氏の「吉兆味ばなし」全4巻の愛読者としては、いくつもの疑問が渦を巻く。どこの世界も、代替わりは難しいということか。
 高級料亭として名高いので実際に食べる機会がなく、加工食品を控えているので吉兆ブランドとも縁がなく、4冊の書籍を通して知っているだけだが、創始者は相当に偉い料理人だったという気がしてならない。そもそも「吉兆味ばなし」は、暮らしの手帖の名編集者花森安治さんが毎回湯木貞一からの聞き書きとして長年暮らしの手帖に連載したもの。語り口は湯木貞一のゆったりしていながら料理に対しては道を極めた職人芸の深みと切れ味、それを文章にまとめる花森安治さんの高度な編集力と言語感覚、この二つの名人芸が合体して出来た料理本だけに、全く写真を使わない画期的な料理書が出来上がった。達意の文章とはこうゆう文章のことを言うのかと思うほどの見事な出来栄え、読んでスーッと飲み込めて、わからないということが全くないところが凄い。
 料理だけでなくすべての技術書に共通するのは、写真やイラストなどのビジュアルな補助がなければ、十分に伝えたいことが伝わらないということ、この当たり前になってしまった常識の中で、ふんだんに図版を使った説明書の文章の詰めがだんだん甘くなっているものが増えてきたが、そんな中で、完全に写真なしの「吉兆味ばなし」はひときわ異彩を放っていると言っていい。辰巳浜子さんの「料理歳時記」なども、写真なしだが作ってみようという気持ちを強く喚起した名著だった。
 この「吉兆味ばなし」のうれしいところは、家庭料理と全くかけ離れた名料亭の料理人が、本気になって家庭における料理を意識して話してくれているというところ。あまりに複雑な手間をかけずに、同じ食べ物を調理する者として、押さえておきたいポイントを示してくれている。必要なところでは、調味料の分量なども詳しく書いてあるので、実用書として不便はしない。全4巻の中でも第1巻目は、素材の取扱いの具体性において、とりわけ使いよく内容が濃い。全4巻ではなく2巻程度に内容を精選しくれたら、抜群の料理書になったことだろう。料理が好きなら、全4巻をそろえてもいいが、特に1巻目はいつも傍に置いておきたい傑作。
 季節感がどのように扱われているか、分かるので目次を引用しよう。引用した見出しのもとに、7〜8種類前後の調理のヒントやレシピが簡潔に並ぶ。船場吉兆は廃業しても、創業者の素晴らしさはには何の影響もない、この国の貴重な料理文化の財産としてこの本は大切にしたい。

春は春らしく/なすが出て夏がやってくる/ひやし煮しめ
焼どうふなど/冬の菜/卓上の春/魚を煮る/きゅうりの色なすの色
巻き焼きの上手な奥さん/黒いお椀、赤いお椀/お餅とふろふきとあずき
きすで二つ三つ/お弁当いろいろ/真夏の天ぷら/秋さば四題
おじやと雑炊/わかたけとのっペい汁/うなぎの蒲焼を買ってきたら
吸物と玉子どうふ/早春のこんだて/梅椀わかたけ椀
鯉こくと柳川なべ/初秋と野菜とはもと/庖丁かげん