武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 柴田天馬訳の聊斎志異について(1)

 今年の5月に出たちくま学芸文庫の1冊、柴田天馬訳の「和訳聊斎志異」を読んでいたら、聊斎志異を初めて手にした中学生の頃を思い出して、好奇心が目覚めた。南條竹則氏によるこの文庫の解説には、大変に力がこもっており、「ちくま」6月号の東雅夫氏の推薦文にも熱いものを感じた。
 慌てて書庫にがさごそ潜り込んだり、ネットであちこち検索したりして、幾つかわかってきたことがあるので、少しまとめてみたい。
(1)まず、翻訳者の柴田天馬氏について、角川文庫改訂版完訳聊斎志異第4巻の巻末に、略歴が出ていたので全文引用しよう。

明治5年(1872)11月3日、鹿児島市薬師町に島津藩のフランス語学者柴田圭三の長男として誕生。本名一郎。神田共立学校、東京法学院卒業。明治38年(1905)渡満。安東新聞細集長を経て、明治42年(1909)満鉄入社。満洲日日新聞社取締役、満洲経済時報社長などを歴任。終戦により帰国。昭和28年(1953)『聊斎志異』翻訳の功績により毎日出版文化賞を受賞。昭和38年(1962)2月9日、東京都大田区嶺町の自宅にて死去。享年91歳。

(2)出版のきっかけ−ネット検索していたら以下のような面白い記事を見つけたので引用しよう。

結城廉造は大正8年頃、満州旅行中に病気にかかり、奉天の満鉄病院に入院した。退屈なので院内にあった「読書会雑誌」を読んだ。その中に清代の怪異小説「聊斎志異」の一編の翻訳が収録されている。廉造はその浪漫性の美しい文章の虜となった。帰国して兄の結城禮一郎(1878-1939)にその話をすると、兄が主宰する玄文社から出版することになった。これが名訳で名高い柴田天馬訳の「和訳聊斎志異」の誕生である。(ケペル先生のブログ)より。

 出典が不明なので、事実かどうかの裏付けはとれないが、いかにも有りそうなエピソードである。
(追記)<ケペル先生のブログ>に教えていただいたところ、出典は、修道社版定本聊斎志異の6巻目の月報に、柴田天馬氏ご本人が書かれていることが分かった。
 このようにして最初の出版物、『和訳聊斎志異』が1919年に玄文社より刊行された。
(3)玄文社(1916〜1925) この出版社については、wikipediaに次のような記述がみつかる。

東京市芝(現・東京都港区)にあった化粧品メーカー、伊東胡蝶園の二代目社長伊東栄が、結城礼一郎を主幹として創めた。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行した。

 面白いことに、ここの社員にやがて第一書房の社主となる長谷川巳之吉がいた。長谷川巳之吉はここで編集のノウハウや詩人作家との面識を得て、出版人としてのスタートをきったのである。
聊斎志異 : 和訳=蒲松齢 著,柴田天馬 訳 玄文社 1919
支那聊齋志異=聊齋,柴田 天馬 玄文社 1924 (世界怪奇叢書)

 玄文社からは、この2種類が出版されて、25年に同社は解散してしまう。
(4)第一書房(1923〜1944) 第一書房についてはwikipediaは、次のように印象的な説明を載せている。 

大正末年から戦前の昭和期に長谷川巳之吉が創業し、書物の美にフェティッシュにこだわり、絢爛とした造本の豪華本を刊行、「第一書房文化」と讃えられたことで知られる。

 29歳の時巳之吉は、編集方針で玄文社の社主と対立、1923年に同社を退社して、自ら第一書房を創設している。
 ところで、さらに面白いことに、第一書房が1926年に発行した柴田天馬訳豪華本『聊斎志異』を仔細に調べてみると、面白いことがわかる。
 何と、玄文社のものと全く同一の紙型(活版印刷の元になるもの)が使われている事実である。序から最終ページまで、本の中身はページ番号の横線を削りとった以外は、全く同一の紙型が使われており、周りの装丁を布張りにしたり、紐で綴じる箱をつけたりして、豪華本を演出している。 (右の画像は、第一書房聊斎志異豪華版)
 解散した玄文社の紙型を、巳之吉は何らかの方法で入手、コスト最小限の豪華本ビジネスを展開してみせたということだろうか。
(追記)その後 手にした「聊斎志異研究」に、この同一紙型出版事情のエピソードが出ていて、疑問が解消したので、該当する部分を引用しておこう。古き良き時代の、出版界美談と言えまいか。

 関東大震災後のことである。新たに第一書房を開いた長谷川巳之吉君が、聊斎志異を出版したいと云つてきた。喜んで承諾し、一割二分出すといふ印税を、一割でよいと答へた。これは、震災の時、玄文社員だつた長谷川君が、火の海を潜つて、同社から聊斎の紙型を持ちだしてくれた、志異に對する愛惜に報ゆるためであつた。間もなく出版されたのは、四六判の玄文社の祇型を其の儘つかつて菊判に印刷し、表紙は黄地白點の蔵経紙、見返しは紅唐紙、緞子模様の秩入りといふ凝つたものであつた。此の装釘は品評會で入選したと聞いてゐる。

 この豪華本『聊斎志異』の最後に、次のような広告が出ている。

原文対照訳 原本挿画入 全訳聊斎志異 訳者柴田天馬
右全部訳了後、各冊菊判五百頁位にして 当書房より刊行いたします

 巳之吉は、柴田天馬を励まし、聊斎志異全訳を依頼、順次全訳版の刊行を約束していたものと思われる。
 この約束に答える形で出版されたのが、次の本である。

・『全訳聊斎志異 第1巻』 蒲松齢著,柴田天馬訳 第一書房 1933

 この全訳シリーズは33年に1巻目が出たあと発禁処分をくらい続刊がでない状態が長く続く。そして、戦後になってようやく、創元社から全訳の聊斎志異が刊行されることになる。この『全訳聊斎志異 第1巻』は、数ある聊斎志異翻訳本の中で、もっとも美しい装丁の本である。本文もルビも注も表紙も紙質もテクストも、どれをとっても素晴らしい。発禁処分は、完璧すぎたからではないかしら(笑)。


・『聊斎志異 : 和訳』 蒲松齢 著,柴田天馬 訳 第一書房1926
・『聊斎志異1』蒲松齢 著,柴田天馬 訳 第一書房1933

 
 第一書房からのこの2種類が刊行されたが、44年に同社は解散してしまった。
(続きは戦後編へ)