武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 『一娼婦の手記−ファニー・ヒル−』 ジョン・クリーランド著 中地知夫訳(発行田園書房)

 英国産の古典ポルノを代表するファニー・ヒルの日本語訳は、何種類あるのだろう。気になったのでネットで調べてみた。①原笙二訳(美和書院)1951年②松戸淳訳(紫書房)1951年③清水正二郎訳(浪速書房)1965年④吉田健一河出書房新社)1967年⑤近藤潔訳(角川文庫)1968年⑥中野好之訳(田園書房)1969年⑦根岸達夫訳(浪速書房)1982年⑧及川寛平訳(宝島社)2005年⑨伴吉彦訳(ドットブック版)、半世紀近い期間になんと9種類の翻訳が出ており、その中で文庫に加えられたものが3種類、ネットを利用したものが2種類、この国の出版業界は相当にこの古典ポルノがお気に入り。これほどに出版業界を魅了する魅力は、この本のどこにあるのか、考えてみたくなった。
 私が所有し愛読している版は、吉田健一訳の河出書房新社版と中地知夫(中野好之)訳の田園書房版、いずれも原作の1749年すなわち18世紀のイギリスの時代性を尊重したらしいやや古風な文体の日本語訳。画数の多い漢字の使用頻度がたかく、一つの文章が長く構文が複雑で、通読にしばし緊張を強いられるような、かっちりした文体のベールを幾重にも潜り抜けて、主人公のあられもない行状が浮かび上がってくる読み味には何ともいえない優雅な味わいがある。

 とりわけ気に入っているのが、中地知夫訳の田園書房版、訳者が「正確さをこころがけた逐語的翻訳」と謙遜するように、「原作の体裁と持ち味をなるべく正確に」伝えようと配慮されているようだ。文章の息が長く、しっかりした日本語の構文が、よじれたり千切れたりすることなく明快に綿々と続いて、読み手を引きつけて離さない。現代風の短いスピードのる文体の対極にある時代がかった古風さがなんとも言えない。
 訳者は、元々はお堅い近代イギリスの歴史書および哲学書の翻訳で著名な中野好之氏、カッシーラーレスリー・スティーヴン、エドマンド・バークバートランド・ラッセル、ボズウェル、ギボンなどの翻訳家。言ってみれば『ローマ帝国衰亡史』の文体で、古風で艶麗な古典ポルノを現代日本語訳したものと考えたほうがいいかもしれない。私には「正確さをこころがけた逐語的翻訳」が、とてつもなく面白く読めてしかたがない。余計な文学的な配慮を通さず、直裁に原作のエロティシズムが伝わってくる感じがする。見事な翻訳と言っていいのではないか。
 内容にいってみよう。思いつくままに箇条書きに整理してみると、
①これはある少女の性を切り口にしたファンタジー、成長の物語、一種の教養小説である。書簡の形式をとっているので、視点のずれようが無く、体験談として語られるのでかなりリアルである。全文が地の文、会話文など皆無、綿々と続く手紙調の古風な文体が、時には優雅、時には限りなく猥褻に、物語を進めてゆく。
②筋の切り替え、場面の転換で不幸や悲惨を予想させるが、ストーリーはいつも明るくまとまり、主人公は常にプラス志向で楽天的に事態を切り開いてゆく。襲いかかる試練を見事に自分のチャンスにして、性の喜びを思う存分に謳歌、読者を喜ばせてくれる。
③自分を含め登場してくる女性男性の肉体の艶やかに絢爛たる美しさ淫らさを、何の衒いもなく描写、読み手を楽しませてくれる。古風な文体でこれをやるので、まるで優雅な踊りを描写しているようで気持ちがいい。
④主人公の性格が田舎娘からスタートするせいか、素朴で素直、気になるトラウマも暗さも無く、天真爛漫といいたいほどに朗らか、ばかばかしいほどのサクセスストーリーになっているところが面白い。
⑤肝心の濡場の描写だが、直接的な性器の表現は一切なく、すべて間接的な暗喩を多用、巧みに連想を誘い、露骨な表現を回避しているせいでややもどかしい感じもするが、味わいは優雅、しつこくなくさっぱりしている。半透明のモザイクかボカシがかかっているような感じ。人によっては、かえって猥褻感を強調すると感じるかもしれない。要するにもどかしくファジーな表現を読者の経験と想像力で脚色できる面白みとでも言おうか。
 この作者は、この1作で終わった人らしいが、無理もない。この絶妙のバランスは、次の作品が困難だろう。遠い東洋の島国で、これほどまでに気に入られて出版業界に迎えられるなんて、作家冥利につきるというもの。映画化され、DVDでも販売されているようだが、私はこの古めかしい書簡体で読むのが、由緒正しいファニー・ヒルの賞味法だと思っている。
 入手するとしたら、ちくま文庫になっている中野好之訳のものがお薦め。現在絶版のようだが今なら古書店に廉価でたくさん出ている。田園書房版の単行本の方が、もう少し訳が古風で味わいがあるが、1969年発行のものなので入手は難しいかもしれないが、こちらのほうが本として遥かに優雅、所有していて楽しい。
 原作の英文が全文タダで読めるサイトがある。興味のある方は、次のURLにアクセスしてみてほしい。長い長いセンテンスの複雑な構文をもつ古典的な英文が、きっとあなたを歓迎してくれるはず。(下の画像はWikipediaからの借用)
http://fiction.eserver.org/novels/fanny_hill/

 最後に、本書の目次を引用しておこう。

第一信
 身の上話 ロンドン出京 口入屋 ブラウン夫人邸 共寝の友 新しい粧い 取引 試練 クロフツ氏 華やかな世界 近衛兵 新しい懸念 ポリーの饗宴 合戦再開 安堵と希望 邂逅 愛への門出 合歓の喜び 愛の夢路 陶酔 チャールズ 新生活 ジョーンズ夫入 有為転変 悲嘆と絶望 H氏との出会い 金の負目 愛なき接触 囲われの身 H氏の粋狂 復讐計画 愛への惑溺 ウィルとの交情 恍惚境 交際のつづき 優しき従僕 不始末 今後の思案 新出発
第二信
 新居到着 学園編入 コール婦人の庭訓 エミリー ハリエット 乙女の嘆き ルイザ 憐れみの天使 田舎舞踏会 ルイザの演奏 ハリエットの演技 エミリーの演出 晴れの舞台 彼氏との共寝 新しい獲物 ノーバート氏 芝居 処女の名誉 心の疼き 脱線 パーヴェル氏 鞭打 生贅 痛みと疼き エミーの失敗 呪わしき光景 倒錯 お人好しのディック 道化の杖 遠出 水遊び 余裕と分別 老恩人 恋人への思慕 奇蹟的再会 青年チヤールズ 愛と羞恥 愛の勝利 美徳の喜び

 僅か二通の手紙の形式だが筋書きがけっこう起伏に富んでいることがお分かりいただけるだろう。優雅な古典ポルノを是非ご賞味あれ。