武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

 絵本作家の長新太さん死去、また稀有な才能が鬼籍へ 「プラテーロとわたし」春・夏編 J・R・ヒメネス・作 伊藤武好/百合子・訳 長新太・画(理論社アテネ文庫)を再読

toumeioj32005-06-27

 6月25日、喉のがんで長新太さんが77歳でなくなった。長新太さんを絵本作家と呼んでいいかどうか。漫画家、挿絵画家、絵本作家、レッテルはいろいろ貼れると思うが、その画風はたやすく真似が出来るようなものではなかった。独特の個性があり、どの絵をみても一目で長新太だと、誰にでもすぐに分かる明快で大衆的な作風だった。
 素朴と言っても間違っていないが、単なる素朴ではなかった。ユーモアは、どの絵にもみなぎっていたが、一抹の寂しさをのぞかせる味のあるユーモアだった。奇抜と言えば、ストーリの展開には想像を絶するような奇抜な展開があり、シュールレアリズムもびっくりと言うようなとんでもない発想の出来る人だった。こんな発想どこから出てくるのか不思議な人でもあった。
 文句なしに子ども達が喜んで支持した。見る目のある大人たちをも巻き込んで、広い層の読者を魅了し続けてきた。おそらく、じっくり構えてこねくり回すのではなく、スピードに乗ってどんどん仕事をさばいてゆくタイプの人だったのではないか。ためらいのない素直な幼児の線描のような自在な感じが、真似の出来ないのびのびとした造形を導き出して見事だった。
 何冊もあった絵本も、子どもの成長と一緒にいたんでなくなってしまい、今も残っているものを見つけ出してきた。ヒメネスの「プラテーロとわたし」。言わずと知れたスペイン語圏の超有名図書、やさしい抒情性に満ちた自然描写と孤独でさびしい詩人の心の詩。プラテーロと呼んでいるロバに語りかける形式になっているが、全編詩人の孤独な魂のモノローグ、読む人の気持ちを和ませてくれる名詩集。この詩集につけられた挿絵を他にも見たことがあるが、長新太さんのあまりいれこんでいない感じのさりげない可愛い挿絵がなによりも一番いい。本編の詩と適度の距離をとり、くどくなく離れすぎてもいない、さりげない伴奏のオブリガードを付けたような感じがとてもいい。長新太さんならではの挿絵として気に入って残してあった。
 返す返すも惜しい人をなくした。ご冥福をお祈りしたい。