武蔵野日和下駄

10歳から続く乱読人生、年季の入った活字中毒、頭の記録メディアがダウン寸前、記憶のダイエット装置

『私―谷川俊太郎詩集 』谷川俊太郎著 (発行思潮社2007/11/30)

 谷川俊太郎さんの一番新しい詩集、当たり外れのない、この国では珍しい本物のプロの詩人だと思ってきたが、何年か前、minimalという詩集を読み、「しばらく詩から遠ざかりたいと思ったことがあった」と書いた後書きを読み妙に納得した。その詩集の呟きのような数少ない言葉の詩を読み、谷川さんの詩の言語がやせ細ったような気がして、寂しい思いを抱いたことがあったが、今回の新詩集はそんな気持ちを吹き飛ばしてくれた傑作。

 谷川さんの詩の魅力は、汲めども尽きぬ泉のように自在に涌いてくる軽々とした、軽妙で豊穣な言葉の豊かさにある。何重にも意味をまとった重苦しい言葉が、谷川さんの手にかかると不思議なほどに軽くなり、世俗のしがらみから解き放たれて繊細で淡い詩の言葉として浮遊する。言葉の魔術師めいた技術に、いつもいつも感心させられてきた。
 今度の<私>と名づけられた詩集でも、表出された言葉をたどると、詩集のなかの私は、透明人間のように透きとおり限りなく軽い感じがして、何とも読んでいて気持ちがいい。全編に<老い>の自覚が沁み渡っていて、自分を意識的に希薄なもの、薄く延ばされ広げられたものとしてイメージしているらしく、一つの老年期の精神状態の報告としても、きわめて面白い。
 嬉しかったのは、谷川さんの詩集が、再び軽やか豊穣な詩の言語を取り戻されていたこと、いい意味で饒舌、湧き出るように自然な感じで言葉が紡がれ、モーツアルトの旋律のように澱むことのないない早瀬のように、意味を追い越すスピードでイメージが展開してゆく。注文によりたくさんの詩を一定のレベルを保ちながら量産する中から生まれてきた手法ではないかと思うが、これでこそ本来の谷川俊太郎と、読みながら納得し満足しながら読んだ。それでは、少し内容に触れてみよう。
 冒頭にあるのが<私>と題された、8編構成のおそらくは組詩、雑誌新潮にひとまとまりで掲載されたもののよう。


  自己紹介、河、「私」に会いに、ある光景、朝です、さようなら、書き継ぐ、私は私


 これらの8編のうち、3篇は題にも<私>という言葉を使っているように、いずれもが自分を主題にした作品、詩人であり老年期にある自分を、韜晦したり揶揄したり労わってみたりと、なんとも自在に表出した、深刻で軽い奇妙な味わいのある傑作連作、8編まとめて名品というほかない詩篇。中でも「さよなら」と題された詩など、長年働いてくれた自分の内臓たちへの感謝と惜別のことば、こんな発想をした老人なんて、空前絶後ではないだろうか。あまりのユニークさ吹っ切れた潔さに、胸が熱くなる感動をおぼえた。
 「書き継ぐ」という詩の最後では、

  意味よりも深い至福をもとめて
  私は詩を書き継ぐしかない

と、詩人としての自分の覚悟を、きっぱりと書ききっている。こんなに見事な詩人の決意を、ほかでお読みになったことがあるだろうか。ともあれ、この詩集の冒頭の<私詩篇>は期待通りのすばらしい傑作。これを読むだけでも買う価値がある。
 続いて、<廃屋>と題された詩が3篇。この3篇の作品にも、順繰りに展開してゆく連作としてのイメージの広がりと深まりがある。鮮やかな短編映画を見るような、物語性すら感じる。この3篇もなかなかの名品。谷川さん以外こういう詩を書ける人はいない。
 次の「入眠」と「二×十」は、独立した単品、いずれも詩や言葉をめぐる詩。
 続く5編の詩も単品だが、詩や詩人をめぐる思いにまとまりがあり、それで目次ではひとグループに仕分けされているのどろう。
 次の3篇は、音もしくは音楽に関係するもの。この詩人の才能のもとになっている抜群の音感が、見事に表現されている小品。
 次の「《夢の引用》の引用」は、長詩だがわたしはチト苦手。漢字を多用した短いフレーズが展開する詩だが、谷川さんの自由でしなやかな言葉使いを、無理してそぎ落としたみたいで、あまり好きにはなれない。minimalの延長線上にある詩篇か。
 次の「「午後おそく」による十一の変奏」、人生を一日に例えれば、老年期はさしずめ「午後おそく」もしくは夜となるだろうが、そんな人生後半の哀感を漂わせたこれまた11の連作の名品。乾いた感じだが読んでいてこちらの気持は逆にしっとりとする。こういう心境で日々を過ごすのも悪くはない。
 次は、少年と題された12編の連作、谷川さんの中にいつまでも生き続けている少年的なものを掘り出した連作。一人称の<ぼく>、ぼくを主語にしてしか書けない世界を男は誰もが持っていると思うが、この連作は、そんな世界を70代の谷川さんがのびのびと展開したもの。爽やかな少年詩篇というべきか。老境を迎えた詩人の中に生きている少年のなんと初々しく爽やかなこと、老境にあってなおこんな詩が書ける谷川俊太郎は、羨ましい限り。特に気に入った連を2つ引用しよう。

落ち葉の葉脈を旅して
ぼくはいのちの地図を描く
ペニスがするどく指し示すほうへ
ぼくの夢はめざめるだろう

どんな遠いところまでも
こころは行くことができるから
知らないことがあるのはうれしい
知ることで苦しみがふえるとしても

 最後に置かれているのは、「不死」と題された連作3篇、主語は二人称の<あなた>かあるいは人称代名詞なし。谷川さんがたどり着いている境地のようなものかもしれないが、かすかに死の匂いが漂う。正直言って、この最後の詩篇は、あまり好きにはなれない。読んでいてつらい。
 以上、この詩集をざっと眺めてきたが、全体として谷川俊太郎らしい良い詩集。若い人よりも、ある程度年齢を召された方のほうがしっくりするような気がする。読みようによっては、あまり類をみないほど深く老境をえぐった詩表現が随所にみられて、一瞬言葉を失いそうになる。